なんのヘンテツもない平日の明日、オレはここには居ない。
『なんちゃって人生論』
***
彼に会ったのは3年前の夏だった。
彼、というには少し老けているのだが、名前を知らないのだから仕方ない。
いつもの格好、いつものしぐさ、いつものベンチに、いつもいつも、座っている。
そう、彼はホームレスだ。
「またなぐりにきたか」
苦笑しながらいつもの言葉を吐き、彼は腫れぼったくなった目をしばたかせた。
また、とは物騒な。
一瞥したあとスクールバッグを乱暴にベンチへ置き、彼をどかせてそこへ座った。
雨のせいでぬかるんだ地面に抵抗もなく座る彼を、オレはまた一瞥する。
3年前、といったらオレは中3だ。
あれは進学校にいくため部活も休んで塾へ行く途中だった。
台風が直前する前の湿った空気、熱。
たまらず公園にかけ込み蛇口へかぶりつき、
なまぬるい水を飲み込んで、口をぬぐいながらふと目が合ったのがこいつだった。
そしてオレはなぜか、目の前にいる汚れた彼を、殴った。
「おい」
オレは地面に座る彼に言う。
彼は静かに、体を固くした。
いつもならここで人間サンドバッグが始まりかねないが、今日はそのために来たのではない。
「オレ、今日で日本出るから」
振り向いた彼の顔は、意外にも平然としていた。
少し沈黙が続いて、彼が口を開く。
「べんきょうか」
「ちがうよ」
日本を出ると決めたのは、つい5日前のことだった。
別に何があったわけでもない。前々から決めていたことでもなかった。
ただ、
「遊びたくなった」
彼は、なんとなくオレの言いたいことがわかったようだった。
「・・ここでるっつったっておまえ、金はどうすんだ」
「バイトの金、ほとんど使ってなかったからあまってたし。残りは親」
「おや?」
「勉強に使うって言ったら、喜んで出したぜ」
オレはハハ、と小さく笑った。
金には困らなかった。
不謹慎ながら、オレの家はそういうことで困ったことがない。否、困らない。
適当な理由さえつければもらえるほど、束縛はゆるかった。
「ここでるって言ってないんだろ」
「ハ、」
よく分かってんじゃねぇか。
そう言い足すと、彼はなにも言わずうつむいた。
「いわねぇよ、親になんか」
「・・・・」
沈黙が続いている。
コイツと出会って、3回目の夏。
公園内のセミは変わりなく鳴き続けていた。
去年もおととしも流れていた風。
なまぬるい水しかでない蛇口も、いつになっても使えないブランコも、湿ったベンチも空気も熱も影も、
みんなみんな今日でお別れだ。
なんのヘンテツもない平日の明日、オレはここには居ない。
「おぼえてるか」
唐突に話しかけられ、オレはふと我に返った。
いつの間にか、彼はおれの正面に立っていた。
足も崩さず、手も動かさず、ピンときょうつけの姿勢で。
「なんだよ、気持ち悪」
「おれとおまえが会った日だ」
それでもって、おれが人生ではじめて受け身をとった日。
付け足して彼は少し笑った。
黄ばんだ歯が、くちのはしからのぞく。
急になにを言い出すかと思えば、お涙頂戴の思い出話?
オレは馬鹿にするように失笑し、覚えてない、とハッキリ答えた。
本当はハッキリ覚えている。けど、言うと恥をかきそうな気がした。
それに、オレは彼を必要としていないのだから。
「おぼえてないのか?」
「だから覚えてないって。じゃーな。思ったより反応もつまんなかったし。オレは帰る」
もう帰ろうとスクールカバンにのばした腕が、ヤツのうす汚れた手につかまれる。
「きたねぇな、離せよ」
「おぼえてるか、あんとき」
「うるせぇ覚えてねぇっつってんだろ、離せ、」
オレは殴るという抵抗を忘れていた。
何度も何度もしてきた行為だというのに忘れたのは、こうなることを予想していなかったからだ。
どうして、こんな、
「離せ!!」
オレは大声を張り上げる。驚いたのか、彼はすぐに手を離した。
オレは、
「あんときおまえ、ないてたぞ」
オレはわかってほしかったわけじゃない。
「おい、おまえ、」
「え」
ツ、と指で頬をなでる。
ソレはたしかに目から出てていて、ヌルリと指先に絡みついた。
オレ、泣いてる。
あれから1時間ほど、彼と話をした。
ああ最後だというのに、オレは殴ることもなにもせずに別れそうだ。
あたりが薄暗くなってきてから、ようやくオレはスクールカバンを持ち上げた。
「おまえ」
「あ?」
「将来のゆめはあんのか」
「さぁ」
「これからどうすんだ」
「さぁ。でも少なくともあんたみたいな負け犬には絶対なんねぇよ」
言い放つと、彼は悲しそうにまぶたを閉じた。
オレはスクールカバンを持ち直し、腕時計を見る。
時計は8時をまわっていた。
あと、4時間。
「心配しなくても、あんたを老人ホームに入れてやることぐらいはできっから」
そう言うと、彼は目を細めて少し笑い、また黄ばんだ歯がこっちを向いた。
なんのヘンテツもない平日の明日、オレはここには居ない。
小さく笑うと、ゆっくり公園を出て行った。