それは
たとえばプラモとかパソコンのキットみたいに
説明書のある簡単で単純なものだったりするのかな
『ボクマニュアル』
***
ソレはポジティブな言葉が書き綴られた本なんかじゃなく、本当に取扱説明書じみたシビアな本だと、ボクは噂で聞いていた。
たとえば、携帯でどこのボタンを押せばメニューが開けるのか説明書を見れば分かるように、
ソレを見れば大抵のニンゲンが思う「良いニンゲン」になれるのだ、と。
ボクは天狗になっていた。
自分でつくった小説のヒットと同時に、金も名声も驚くくらい手に入ったのだ。
そのせいでボクはすっかり舞い上がっていた。
子供の頃に決してなるまいと誓っていた、いわゆる「悪いニンゲン」になり落ちてしまった。
そしていつの間にかその時代も終わり、今。
天狗はそう長く続かない。
世界的に認められたボクも、気付いた頃にはすっかり忘れ去られ、代わりに大きな虚無感が襲った。
当然のようにスランプも押し寄せる。プレッシャーも並じゃない。
天狗になっていた頃の大きな金も、もうない。
犯した過ちのせいで、今のボクの肩を持つニンゲンなどもいない。
だからソレの噂を聞いたとき、鳥肌がたった。
もう一度天狗になるなどという思考はまったくなかったが、
もう一度あのなんともいえない優越感を味わいたいと。
そこは極々普通の、ありふれた図書館のように見えた。
ファンタジーなニオイもしない、街なかにある図書館。
中に入るとカウンターがあって、美人とはいえないが、若く優しそうな女性が座っていた。
そのまま視線を泳がせ、周りを見渡す。やはり平日の午前のせいか人は少ない。
奥へ進むと、これでもかってほど本棚が並んでいた。
そしてそこへギュウギュウに詰められた本、本、本。さすがにこれには驚いた。
――いったいどうやってこんな数の本を集めたんだ?
普段人並み以上の本を読んでいたボクでも、こんな数は見たことがない。
いや、いまはそんなことを気にしている場合ではないのだ。
ボクは足を進ませた。
更に奥へ進むと二階に繋がる階段があった。そう、二階にあるのだ、ソレは。
高鳴り始めた心臓の音を聞きつつ、ゆっくりと階段に足をかけた瞬間、
「二階は関係者同行でなければ立ち入られません」
声がしたほうを見れば、先ほどまでカウンターに座っていた女性が微笑みながら後ろに立っていた。
「私のあとに続いてください。ではどうぞ」
ボクは戸惑った。
ソレを目当てに来たなど、知られてはいけないような気がしたからだ。
だがここまできたら仕方ない。
「あ、ああ、悪いな」
申し訳なさそうにそう言い、微笑んだ。
ふと壁に目をやると、『二階は関係者同行となります』と書かれた紙が貼り付けてある。
今頃気付いておいて「なぜ?」と聞き返すわけにもいかず、ボクは黙って彼女のうしろに続いた。
二階は妙に暗く、湿った空気がじっとり肌に吸い付いてくる。
窓は驚くなかれ、ひとつもない。もちろんドアも入り口にひとつだけあるのみ。
彼女はパチンと照明をつけると、「ご自由に」とまた微笑んで、二階入り口付近にあるカウンターに座った。
一階と同様、本棚の数と比例して本の数も恐ろしいが、明らかに質が違った。
大抵のニンゲンが望む、普通の『本』じゃない。
これなら早く見つかりそうだ、と満足気に思いつつ、ボクは噂で聞いた著者名を探し始めた。
著者名は、ヤヱ。
女性みたいな名前だが、たぶん男性なのだと思う。
大体そんな可笑しい本を出す思想上、とうてい女性とは思えない。
ヤ行をゆっくり指でなぞり、目で追っていく。
高鳴る心臓。息を静かに荒くして、ボクはじりじりと足を進める。
――ヤヱ
「あった!」
思わず大きな声を出してしまった。
焦ってカウンターを見やれば、女性は怒っているそぶりもせず微笑んでいた。
ホッとし、また本棚に目を戻す。
ヤヱはどうやらけっこうな量の本を出しているようだ。
ざっとみて、本棚の3段ほどを占める量。
正直本を見るだけでも吐き気がするのだが、仕方ない。
ボクはさっそくお目当ての本を探し始める。
大量の本数があるというのに、意外とあっけなくソレは見つかった。
人間マニュアル。
手にとってみる。ホコリがうっすらのっていて、ここ数年借りられていないのが丸分かりだ。
白い表紙にただ「人間マニュアル」という文字が印刷されてあるだけのシンプルなデザイン。
著者名も表紙の下部にひっそりと書かれてあるだけ。
そして思いのほか、薄い。
これが本当に、マニュアルか?
半信半疑ながらも、ふと疑問に思い、裏返して値段を見る。
本来バーコードがついていて値段が書かれている場所は、黒く塗りつぶされていた。
だんだん薄気味悪くなってきたが、だからといって借りないわけにもいかない。
ボクは早く図書館から出るため、そそくさとカウンターにソレを差し出した。
「こちらで間違いないですか?」
「ああ」
「申し訳ありませんが、この本は現在貸し出ししておりません」
「なんだと?」
ボクは思わず不機嫌な声で聞き返した。
彼女は微笑んだまま、ボクの顔をじっと見てくる。
「どうしてだ」
貸し出しできないならなぜ此処を開けておく?
なにか特別な事情があるのか。値段が黒く塗りつぶされていたのもそのせいなのか。
それとも因縁ツキだとか呪われているだとか、そういう理由か?
とにかく今なにを言われようとボクは納得できそうになかったが、彼女の答えは意外なものだった。
「それが作者の要望だからです」
「作者の?」
そんなことがあっていいのか。
ボクは苛立ちを抑えきれずにいた。
「客の意見を聞くべきじゃないのか」
「マニュアルというのは、読むべきなのに大抵の人が読まないものです」
「そうだ、だから借りるんだ」
「いえ、ですから、貴方も最初からお持ちのはずです」
一瞬、彼女の声が男の声に聞こえた。
ボクは驚いて彼女のほうを見たが、相変わらず彼女は微笑んだままだ。
「マニュアルはあくまで、手引きですので」
その後何度も交渉を試みたが、結局手ぶらで帰宅することになってしまった。
家に帰るなり、ボクは電気もつけずベッドに体を沈めた。
――なんなんだ、あの図書館は!!
まったく、まるでついていない。
苛立ちと後悔、そして落胆がいっきに押し寄せる。
「こんなことになるなら立ち読みでもすればよかったな・・」
天井のシミを見つめながら、ポツリとつぶやく。
そしてなにより、あの女の言葉。
「・・・・読むべきなのに大抵の人が読まないもの」
あくまで、手引き。
ボクはバッと勢いよく体を起こすと、机に向かった。
つけっ放しのパソコンが、電気もついてない部屋を照らしている。
ドキドキしながら、キーの上にそっと手をのせた。
なにも起こらない。
当然か。
大きなため息をつき、椅子の背もたれにありったけの体重をかける。
結局なにも変わることなどないのだ。
明日もまた、同じ日々が続くのだ。
自分で解決しない限り。
マニュアルを見たとしても。
「そういうことか」
フ、と情けなく笑うと、ボクは静かにキーを打ち始めた。