「テディベア・ガール」    ⇒NEXT  BACK  TOP
 
  7時半より早めに学校についた。神崎のことを考えると、胸が痛かったし、苦しかった。それでもオレは神崎に会って、ちゃんと話をしなければいけなかった。
 教室に入ると、すでに神崎は来ていて自分のイスに座っていた。こちらをゆっくりと振り向く。その視線にどきりとした。
 神崎は完全な無表情だった。

 前だって無愛想だったけど、それとはちがう、もっと何かが欠けてしまった面持ちだった。

「屋上で話そう」

 神崎は静かな声で言った。
「カギ、貸して」
 夏樹から預かったままでいた屋上のカギを渡すと、そのまま教室を出ていってしまう。
 オレはその後を追った。
 廊下の空気はひんやりとして、ピンと張り詰めていた。まだ他に生徒がいない時間帯だからだろう。屋上へと続く階段を昇る。短いはずの道程がやたら長く感じられた。神崎は鉄扉のカギを開け、先に屋上に入ってしまう。
 その扉を前にして、オレは少し躊躇してしまった。
 神崎のあの表情。あんな顔をさせてしまったのはオレなんだよな。取り返しのつかない何か大事なものを、失わせてしまったような気がした。
 ポケットに手を入れると、ボールに触れた。それを取り出してしっかりと握ってみる。

 野球か……そういえば、夏樹が前に言っていたよな。
『野球のせいで大事なやつの大事なもんを奪っちまった』って。

 あいつ、あの時やけにしんみりとした顔をしていた。
 オレも今、それと同じ状況にいるのかな。いや、でも、これは夏樹の抱えてるものとはちがうものなんだろうか。ああ、よくわかんないや。何でこんなことごちゃごちゃ考えてんだろう、オレ。
 考えたってしょうがないだろ。自分にそう言い聞かせる。
 覚悟を決めて、ボールをポケットに突っ込み、扉を開けた。びゅっ、と強い風が吹き込んで来た。身体の芯を冷やしていくような冷たい風だ。
 神崎は手すりの所に立って、こちらに背を向けていた。オレが入っていくと振り向いて、口を開いた。
「うちのお父さんのこと、工藤は知ってたの」
 以前、神崎と相対した時は、その目にもっと強い意思の光みたいなものがあった。
 でも、今はそれがない。本当に全ての感情が抜けてしまった眼差しだ。オレはそのことに罪悪感を感じながら、正直に言った。
「……知ってた」
「初めから知ってたの、それとも途中で気付いたの」
「初めから……知ってた」
「……そっか」

 神崎は納得したように頷く。
「だから近付いてきたんだ」

 静謐な声だった。淡々とした眼差しだった。
 オレは、ちがう! と言いたかった。そう言えたら……どれだけよかったか。でも、神崎が言ったことは紛れようもない事実だった。神崎の弾劾するような鋭い視線から逃れたくて、オレはただ面を伏せた。
 そのことに何を感じたのか、神崎は少しだけ舌尖を鋭くして、
「それだけじゃなくて、優しくしてくれたのも助けてくれたのも、全部お芝居だったんだね。フリだけだったんだ。こっちに近付くための」
「そ、それは……ちがうよ」
 もっとはっきり言おうと思ったのに、自分の口から出た言葉は弱々しいものだった。自分でも説得力ないなって思えるほどの。
「何がちがうっていうの?」

 当然、神崎は合点がいかないように眉をひそめた。

 オレは先程よりは声を張り上げて、話した。
「確かに初めはそうだった。神崎の言う通りだ。オレは神崎の親父さんに会いたくて、その目的のために神崎に近づいた」
 神崎の親父さんに会ってどうしようなんて、明確な考えがあったわけじゃない。文句の1つでも言えたらいいや、ぐらいの気持ちだった。
 あの時は気が付いたら大人たちの間で、話がすべてついていた。それが悔しかったんだ。
 今考えると、恐ろしく浅はかで幼稚な考えだ。オレは自己中心的で、見苦しい考え方しかしていなかった。今更そんなことをしたって、起きてしまった過去を変えられるわけないのに。
 言い訳を1つさせてもらえるなら、この夏に親父様を亡くしたばかりで、気持ちが不安定になっていたこともあったのかもしれない。どちらにせよ、オレがみっともない物の考え方をしていたってことに変わりはないけれど。
 とにかくオレは転校して来た学校で、思いがけず神崎に出会い、あの人の娘だってことに気付いて、居ても立ってもいられなくなってしまったんだ。
 そして、ほとんど思いつきで神崎に近付くことを決めた。

 だけど、

「途中から何か変わっていったんだよ……。そういうことはどうでもよく思えてきて、オレは」
「信じない」
 神崎は途中でオレの言葉を遮った。下手な弁解など聞きたくないと言わんばかりに首を振る。
「そんなこと今更どうとでも言える。だから信じない。工藤も証明なんてできないでしょ」
 確かにそうだ。
 話したことに偽りはなかったけど、オレはそのことを証明できない。肝心なのは神崎が、信じてくれるか、くれないかだ。そして、神崎は信じてくれていない。
 当たり前だ。オレは神崎にウソをついた。『キミのことは、信じてもいい?』。その問いかけにオレはうんと答えた。最低なウソつき野郎だ。弁解の余地なんてない。
 謝らないと、オレは思った。ごめんって言わないと。信じてくれないかもしれないけど、またどうせフリだけでしょって言われるかもしれないけど、今オレの中にある神崎に謝りたいという気持ちは本物だった。
 悪いのは全部オレだ。ちゃんと謝ろう。オレは口を開きかけた。
 しかし。

「……ごめん」

 先にそう言ったのは神崎の方だった。オレは驚いて神崎を見た。何で神崎が謝る必要があるんだよ。悪いのは全部オレなのに。
「わかってるよ、悪いのはこっちの方だって。事故を起こした責任はうちのお父さんにあるんだから。それなのに責めたりしてごめんね」
 神崎は俯いていた。またあの悲しそうな顔だ。
「工藤が怒るのも、お父さんを恨むのも仕方がないことだよね。キミはあんなに野球が好きなんだもんね。それを理不尽に奪われたり潰されたりしたら、誰だって怒るよね……ごめん」
 そして、ぺこりと頭を下げる。
「本当に……ごめんなさい……」
 ちがうよ、神崎。謝らなきゃいけないのはオレの方だよ。頭を下げなきゃいけないのはオレなんだよ。
 冷たい風が身体の体温を奪っていく。じんじんと手足が痺れていった。

「神崎、オレは」

 そう言いかけたが、自分でも何を言おうとしていたのかはよくわからなかった。
 1番に告げなきゃいけないことは謝罪であったはずなのに、それを押しのけて、言葉が洩れた。
 神崎が続きを促すように見てくる。
 でも、オレにも何が言いたいのかよくわかっていなかったのだから、その後が続くはずもなく、中途半端な言葉は11月の大気に溶けていった。
 ――沈黙。
 目が合った。神崎の方から先に視線を逸らした。
「……じゃあね」
 呟くように神崎は言う。そして、そのままオレの横を通り過ぎて行こうとする。
「神崎、待ってくれ!」
 オレはほとんど衝動的に、その腕を掴んでいた。さっき言いかけて、落としてしまった言葉を探す。

 自分は何を言おうとしていた?
 神崎に何を伝えなくちゃならない?
 そして、見つけた。




「ちがうんだよ! 今は、今はオレは、神崎のことが好きなんだよっ!」



 神崎がハッとする。
 オレも驚き、慌てて手を離した。こんなこと言うつもりじゃなかったのに。顔が火照った。自分の声が耳の奥でわんわんと反響する。
 神崎は始め、固まっていた。
 次に眉を下げて、泣きそうな顔になる。最後にはその目を吊り上げ、険しい表情をした。
 ぱん、と空気が弾ける音を立てる。
 神崎が手を上げている。一瞬何が起きたのかわからなかった。じんわりと痛みがしみてきて、それと同時に理解が広がる。
 ――叩かれた。
 オレは神崎に平手打ちされたんだ。
「そういうこと、聞きたくない!」
 神崎は怒っていた。怒っていながらもその顔は歪んでいた。まるで泣き出す一歩手前のように。目の下が赤くなっている。
 叩かれたことよりも、言われた言葉よりも、オレは神崎のその泣きそうな表情に打ちのめされ、胸が痛くなった。
「嬉しかった! キミが優しくしてくれたことも、助けてくれたことも、当たり前のように接してくれたことも、全部すごく嬉しかったのに!」
 神崎は悲しみを無理やりにでも怒りに変換させようとしているみたいに、言葉を吐き続ける。
「キミは、キミだけは他の人とはちがうって思ってた! 何か利用してやろうとか自分のために目的があって、近付いてくる人たちとはちがうって思ってたんだよ!」
 その台詞にハッとした。
 オレは初めて――この子の、神崎来紗という女の子の輪郭を捕らえたような気がした。
 神崎……オレのこと、そんな風に思ってくれていたなんて。
 そうか。オレはようやく神崎が、何でこんなに泣きそうな顔をしているかの理由を知った。

 オレは神崎を、神崎の気持ちを裏切ってしまったんだ――

 最低だ。オレはどうしようもないバカだ。神崎のこと、何も理解していなかった。自分のことしか考えてなかったんだ。そうして傷付けてしまった。神崎は本当はこんなにも良い子なのに。オレの自分勝手な考えのせいで傷付けてしまった。
 神崎は肩を震わせて、溢れようとする涙を堪えるかのようにきつく唇を結んでいた。
「お願いだから、もう……」
 しぼり出すようにして言う。
「これ以上……みじめな気持ちにさせないで……」
 そうして、そのまま屋上を出ていってしまう。扉が神崎の心情を表すかのようにバタンと音を立てて閉じた。1人になった。秋の風に身体はすっかり冷え切っていた。
 木枯らしが、まるで1人残されたオレの孤独感を更に深くえぐるかのように、鋭く吹きつける。束の間、何も考えられずに呆然とする。

 ……フられた……

 ようやくそのことを認識して、オレはその場にへなへなとへたりこんだ。



 *


 長い間、そこに座り込んでいた。立ち上がる気力もない。身体を支配する倦怠感に身を任せた。疲れた。しばらく動きたくない。
 そうして、どれだけの時間が経ったか。
 30分だったか、それとも5分くらいだったのか。時間の感覚なんてわからなかった。
 朝のざわつきが何となく校舎の中を賑わせているのがわかった。でも、それはどこか遠くの出来事のように聞こえた。ここは静かだ。その静けさが孤独感を更に際立たせていた。
 叩かれた頬が熱を持って痛む。それよりももっと強く心が痛かった。神崎の言葉を噛み締めるように心の中でくり返した。

『そういうこと、聞きたくない!』

 頭の中で神崎の顔を思い浮かべてみる。どんなに思い描いても、浮かんでくるのは1度も見たことのない泣き顔だった。
 神崎はいつも、つまらなそうなしかめ面ばかりしていたのにな。きっと、さっき見た表情のせいなんだろう。どうしてあんな泣きそうな顔をしていたのか。
 オレの告白はそれほど神崎のことを傷付けたんだろうか。そう思うと苦しくなった。もう泣きたいのはこっちだ。
 神崎はオレのことが嫌いだったのかな。いや、ちがうか。嫌われることをしたのはオレだ。
 全部、自業自得。
 これからは今まで通り神崎と話すことなんてできなくなるだろう。本当にバカなことをした。深く後悔する。後から思い返して、ああしなければよかったなんて考えることは意味のないこととはいえ、そう考えずにはいられない。
 結局、オレは神崎に拒絶されてしまったんだ。
 改めてそのことを意識する。突き放された。もう終わった。
 それでもオレは神崎のことが好きだった。どうしようもないくらいに好きだった。あの歯に絹を着せない物言い、人のことを平気でバカだと言い切れてしまう厳しい性格、時折見せるさびしげな表情、滅多に笑うことはなかったが、その笑顔は最高に可愛かった。
 そのひとつひとつに惹きつけられた。もうどれも届かないものではあったけど。
 顔を上げてみる。錆び付いた鉄柵に囲まれた空間。こうして見ると、屋上って案外狭いんだな。ぼんやりとそう思いながら、神崎が出ていった扉を見る。
 戻ってこないかな。
 馬鹿げた考えはすぐに自分で打ち消した。
 そんなこと、あるわけないか。
 屋上の景色も神崎にあんなことを言われる前と言われた後では全くちがって見えた。1枚の膜を隔てているような感じ。何だかぼやけてる。色もちがう。冗談でなく灰色に見える。呆然と辺りを眺めていると、自分は何をしているんだという自嘲的な思いがこみ上げてきた。

 何だっけ。
 何しようとしたんだっけ。
 ああ、そうか。教室に帰らなきゃな。1人で。

 そう思うのだけど、身体は鉛のように重く沈んでいる。動けない。というか、動きたくない。
 これからどうするかな。
 そう思いながら何気なくポケットに手をやってみる。ハッとした。いつも手の先に触れる感触がない。慌てて逆のポケットにも手を突っ込んでみたが、そこにも何も入ってない。江川のボールがなくなっていた。
 どこかに落としたんだ……。
 すぐに立ち上がって屋上を探してみる。どこにもない。扉を開けて屋上を出る。階段の隅から隅までをくまなく見る。しかし、見つからない。ここに来る前は持っていたんだ。落ちているとすればこの階段か屋上しかないのに。何でないんだよ……。
 何てことだ、あれをなくしてしまうなんて。
 それからもしばらく探したが、ボールは見つからなかった。
 神崎にフられ、ボールをなくしてしまって。今日ほど最悪な1日はなかった。


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