「テディベア・ガール」    ⇒NEXT  BACK  TOP
 
 第4章

 小さい頃から親父様に、昭和時代の怪物、江川のことは散々聞かされていた。
 いかにすごいプレーヤーであるかを、いかにすごい球を投げるのかということなんかを。
 江川は日本の野球界で最も早い球を投げるピッチャーだ、なんてことまで言っていた。その話をオレはおとぎ話を聞くような感覚で聞いていた。
 江川はヒーローだったんだ。親父様にとって。そしてオレにとっても。

 だから憧れた。そういうプレーヤーになりたいと思った。その気持ちが更に固まったのは、夏樹ルカに会ってからだった。

 小学生の天才ピッチャーと言われるほどであった夏樹。あいつは本当に天才だった。生まれながらの才能ってやつを持っていたのだろう。あいつは野球をするためだけに存在している、なんてそんな大袈裟な言葉を冗談にできないだけのすごい才能だった。
 綺麗なフォーム。力強い球。
 どんなに腕の良い打者も夏樹の球を前にしては、ひるんでしまう。オレは1つ年上なだけなのにこんな球が投げられるのかと感動した。そして、そんな球を投げられる夏樹に羨望し、嫉妬し、憧憬したんだ。
 あの時、夏樹は確実にオレの胸の奥に眠っていた何かを揺さぶった。
 それからというもの、何としても上手くなりたいと思うようになった。遊びの一種として楽しみながらやっていた野球を真剣に考えるようになり、技術面にばかり目が行くようになった。
 毎日、練習をした。体力を作るためにランニングもやった。雨が降っている時だって1日も欠かさずにそれを続けた。そして、ボールを投げた。本気になって体を鍛え始めたオレを親父様は喜んで奨励してくれたけど、母さんは厳しかった。無理な運動のしすぎは体に良くないと練習を制限してきた。「全力投球は1日に50球まで」ということを約束させられたりもした。
 それでもオレはうまくなりたい一心で、その目を盗んでそれ以上の球を投げた。

 オレは……
 江川や夏樹のようなピッチャーになりたかったんだ。

 そして、その夢を潰すきっかけとなったのが、5年前のあの事故だった。
 その時のオレは小5だった。母さんの運転する車に乗っていた。後部座席に座っていて、シートベルトはつけていなかった。
 事が起こった時の前後関係はあやふやだ。どこに向かう途中だったのかとか、その時母さんと何を話していたのかとかは記憶にない。ただそこが十字路であったことだけは覚えている。
 いきなりの轟音。そして衝撃。急ブレーキが車道に、軌跡を切り刻む音が鳴った。視界が揺れ、突然のことで頭が真っ白になる。体が投げ出された。そして、肩を扉の所に嫌というほど打ちつけた。後から聞いた話によると、横方向から飛び出して来た車に衝突されたらしい。
 こちら側の線が青信号だった。事故の原因は相手ドライバーの前方不注意。
 すぐに近くの総合病院に運ばれた。いくつかの検査が行われ、脳には特に異常なしと診断された。ただ、右肩関節の骨にヒビが入っている、しばらくは通院が必要になるということを言われた。
 当然、その間野球はできない。最悪だった。練習ができなければ体がなまってしまう。

 しかし、かといって、それで相手ドライバーを恨んでも仕方なかった。相手のおじさんは誠実な人で、何度も頭を下げに来てくれた。十分過ぎるほどの慰謝料と治療費も支払ってくれたそうだ。
 おじさんには娘がいるみたいだった。そもそもおじさんは、その子が入院している病院に向かおうと車を走らせていたらしい。容態が急変したとかいう連絡が入っていて、慌てていたのだとか。そして、運転中に携帯電話が鳴った。娘のことで連絡が来たのかと思い、おじさんは電話に出ようとしてしまった。一瞬の気の緩み。それが事故につながってしまったんだ。
 話を聞いて、オレはその人に同情さえした。おじさんを責める気持ちはなかった。確かに災難だったけど、今回のことは運が悪かったということで諦めるしかない。

 そう思っていたんだ。
 その時は。

 1ヶ月ほどで肩は完全に完治した。やっと野球ができる、とオレは喜んだ。治るまでの1ヶ月間、運動ができずに本当に窮屈な思いをしていたんだ。だから、すぐにボールを握った。また投げるようになった。

 違和感を感じたのは、練習を再開して1週間くらい経ってからだ。

 肩に痛みを感じた。大したことじゃない。軽い鈍痛のようなものだった。おかしいなとは思ったけど、あまり気にしなかった。とにかく早く上手くなりたいと思っていたオレは、それくらいの痛みで立ち止まりたくなかったんだ。
 痛みは続いた。普通に投げてる分には平気なのだが、全力投球を続けていると思い出したようにそれが襲ってくる。しかし、オレはそのことを誰にも話さなかった。母さんに言えば、練習を止めさせられてしまう。また野球ができなくなってしまうのはつらかった。
 そうしてその痛みを抱えたまま、オレは野球を続け、中学生になった。
 中学に入ると、部活での練習は急に激しくなった。毎日投げるうちに、肩の痛みの方もだんだん増すようになっていた。投げる時だけでなく、練習が終わった後もなかなか引かないようになっていった。そのうちそれは激痛と呼べるくらいのものまでに変化した。腕を上げようとしただけで、鋭い痛みが走るのだ。とうとうガマンできなくなって、オレは肩のことを両親に話した。
 すぐに医者に連れて行かれた。そして、そこでレントゲンを取られた。
 骨端線が広がっている。それで骨の形が変形している。でもそうなった原因はよくわからない。医者はそう告げた。それでオレは前にあった事故のことを話した。ああ、たぶん、それでしょうねえ、と医者は言った。
 それから何日か部活を休んで安静にしていると、痛みはだんだん引いていった。そして、普通にボールを投げる分には痛まなかった。肩の怪我は、まるで投手としての生命を絶つためだけに存在するかのようだった。
 何度目かの通院で、医者はこう判断した。日常生活にも、普通にスポーツをやる分にも支障はありません。ただ、とにかく肩に負担がかかる投手を続けることは無理でしょう。
 それでマウンドを、下りなければならなくなった。

 あの時の悔しさは忘れられない。

 今までの練習はなんだったのか。何のために毎日毎日、続けてきたのか。何で、こんなことになったのか。考えると、頭がぐちゃぐちゃになってつらかった。もしかしたら、もともと才能もなく、いつか能力不足でそういう日が来たのかもしれない。でも、こんな風に理不尽に夢を奪われることが耐えられなかった。
 オレと同じくらいに、いや、あるいはそれ以上に、このことに失望した人がいた。うちの親父様だ。上と下の子供が2人とも女の子だったから、必然的に親父様の期待はオレ1人に集中していた。親父様はオレに期待していたんだ。投手として活躍してくれることを、自分が届かなかった甲子園の夢をいつか掴んでくれることを。でも、それはかなわなくなった。
 それからというもの、親父様は帰りが遅くなるようになった。帰ってきても、酒を飲んでいてぐでんぐでんに酔っ払っていた。どこにぶつけることもできない、鬱屈とした思いがたまっていたんだろう。まさかオレを責めるわけにもいかない。
 だから、親父様は母親を責めた。
 あの時、運転をしていたのは母親だった。親父様は「事故の責任はお前にもあったんだ」と母親に詰め寄った。母さんも言われっぱなしで黙ってはいられない。「この子はまだ中学生よ、それにたかが野球のことじゃない」と言い返した。
 たかが野球――その言葉が親父様の逆鱗に触れた。日増しに両親の関係はぎすぎすしたものになっていった。そして、オレが中2の時に離婚が決まった。
 オレだけの所為ではなかったのかもしれない。最近、母親と父親の折り合いが何かと悪いことは、何となく肌で感じていた。オレのことがなくても、そのうち結局はこういうことになってしまったのかもしれない。それでも、自分のことが引き金となってしまったことは確かだった。

 どうしてこうなってしまったんだろう。

 姉と共に家を出て行く母親の姿を見ながら、オレは考えた。そしてあのおじさんのことを思い出した。おじさんのぱりっとしたスーツ、白いものが混じり始めた頭、真面目そうな目付き。そして、おじさんの娘のことも思い出した。
 事故があってから1ヶ月間、オレは週に1度通院することになっていた。その時におじさんの娘に会ったことがある。会ったというより、ちらりと見たことがあるっていう程度。直接、話をしたことはない。
 談話室でおじさんと話をしている女の子がいた。それをオレは遠目に見た。その子はパジャマ姿だった。それで入院していることがわかった。怪我でもしてるんだろうか、それとも病気か。どちらにせよあまり重くは考えなかった。短期入院なのかと思っていたからだ。
 同い年くらいだった。これくらいの歳なら、男の子より女の子の方が体が大きいのが普通だが、その子は小さかった。簡単に折れてしまいそうな細い手足をしていた。頬は雪国で育ったかのように白かった。その白さと、長くて黒い髪とのコントラストが人目を惹きつける。
 学校でその子のような女の子は他にいなかった。だから、何となく記憶に残った。
 その子の顔を、綺麗な髪を、白い肌を、オレはその後も覚えていたんだ。

 そう、ずっと。


 *



 神崎の家を離れ、そういったことを思い出しながら歩いているうちに、駅前の商店街に来ていた。街はすでにクリスマスのイルミネーションで飾られている。色とりどりのライトに目がちかちかした。
 ふと視線を逸らすと、隣はおもちゃ屋。ショーウィンドウにテディベアが飾ってあった。さっき見たヤツだ。くまさんは可愛らしいあどけない顔をしていた。本物のくまとは大ちがいだ。

 もしかして、森のくまさんは――
 そのテディベアを見ながら、オレは思った。

 くまさんって実は、わざとつじつまの合わない行動をしてるんじゃないだろうか?
 逃げろとか、待ちなさいとか。まるで二重人格者のように、ころっと態度を変えて。
 くまには2面性ってものがある。
 オオカミやライオンの人形なんて動物園くらいでしか買うことはできない。でもくまはちがう。くまはどこででも、その本来の気質とちがう可愛らしいぬいぐるみの姿を見ることができる。
 恐ろしい姿と、それとは対照的な愛玩人形。くまはその2面性が顕著な動物だ。
 だから、作者はそのくまさんの2面性を、歌詞の中で表そうとしたんじゃないのか。わかってて、わざとそうしたんだ。
 そこまで考えて、思わず苦笑い。ショーウィンドウに写った自分の顔も、情けない感じに歪んでいた。だから何だと言うのだろう。我ながら下らない説だった。今更こんなことを考えて何になるというのか。
 これから神崎との関係がどうなるのかわからない。でも良い方に向かっていくなんていう可能性は限りなく低いんだろう。神崎の悲しそうな顔を思い出した。
 とにかく神崎とは明日、話をしなければならない。本当のことを全部話そうとオレは思っていた。いや、オレが話すまでもないか。神崎は頭がいいから、今頃すべてを察しているだろう。
 ショーウィンドウの中からは、相変わらずくまさんがこちらを見つめていた。凶暴さの欠片も感じさせない、愛らしい瞳で。やっぱりテディベアって可愛い。まるっこくてふわふわで、くるくるとしたつぶらな瞳を持っていて。
 でも、それは本物じゃなかった。作り物の目だった。ただのビーズだ。目だけじゃない。その顔も、身体も、全部が作り物なんだ。本物のくまとはちがう。

 テディベアなんて、所詮はくまの偽者だ。


 *



 家に帰ると、電話が鳴った。
 取る人がいないので、仕方なくオレが出た。もしもし、と声をかけたが相手は無言。沈黙が続いた。いたずらかなと思い、切ろうとした時、やがて小さな声が言った。

『工藤?』

 その声にオレはすがる思いで飛びついた。
「神崎! 神崎、あのさ、オレ……っ!」
『明日の朝。7時半に来て』
 抑揚のない声でそれだけ言って、電話は切れた。



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