昔、親父様に言われたことがある。
その時の親父様は酔っていた。ジャイアンツがリーグ戦で大敗したから、とにかく飲みまくっていた。やけ酒ってやつだ。そして、そんな酔いが回っていた親父様に言われた。
『いいかぁ、お前にもし好きな子ができたらなあ、ガンガン攻めて落としてやるんだぞぉー。待ってるだけなんて絶対にダメだ。そんなことしてたら、他の男にとられるだけだからな』
顔が赤かった。呂律も回ってなかった。明らかに飲み過ぎだった。
『父さんも昔はそうやって母さんを落としたものだよ。わっはっは』
本当にべろんべろんで、正にたちの悪い酔っ払いだった。
そんなバカ親父のうわごとなんて聞き流していればいいものを、その時のオレは律義に答えを返していた。
『でも、親父様。オレにはそーゆーのは当分関係のない話だよ』
たぶん、笑顔で言ってたんだろうな。それは心の底から思っていることだったから。
『オレにとって1番大事なのは野球だけだから!』
そう信じていたし、そう思っていたんだ。小学生の時のオレは。
いや、ちがう。その時だけのことじゃない。今だってきっとそうだ。
同じだよ。
*
「愛稀ちゃん、今年の3月に事故にあったの」
歩きながら神崎は、ぽつりと話し始めた。病院からの帰り道だった。すでに辺りは暗い。神崎は遠慮したが、オレは神崎のことを送っていくことにしたのだった。
「事故……」
「うん。交通事故。それであんな風になっちゃって……」
その台詞に、今度ははっきりと胸が痛むのを感じた。
交通事故、か。心なしか肩が痛むような気がした。
神崎はオレから目を逸らして脇の方を見た。オレもそちらの方に目をやる。商店街のショーウィンドウ。ガラスケースの中には大きなテディベアが飾られている。
「……ルカも、ショックだったと思う」
ぽつりと。神崎は小さな声で呟いた。聞こえるか聞こえないかくらいの大きさだった。
夏樹?
思いがけず出てきた名前に、オレは面食らった。
何で、そこで夏樹が?
「神崎……」
呼びかけると、神埼はちらりとこちらを見た。オレは聞かないでおこうと思ったことを、つい口にしてしまっていた。
「神崎は夏樹と前に付き合ってた、って話を聞いた」
その言葉に神埼はゆっくりと首を振った。
「それは誤解だよ。実際は……ルカと付き合ってたのは愛稀ちゃんの方だから……」
そうか、夏樹と関係があったのは神崎ではなくて、七瀬の方だったんだ。じゃあ、夏樹がくまさんの謎についてやけに詳しかったのも……全部七瀬のため?
「でも神崎もよく、夏樹と図書室でよく話してたらしいな」
神崎は決まりの悪そうな面持ちをした。もごもごと口の中で答える。
「それは……頼まれてただけで……」
頼まれていた? 何を?
そう聞こうとしたが、その前にオレはハッとした。神崎のセリフを思い出した。
『いつも、何か利用してやろうとか自分のために目的があって、近付いてくる人たちばっかりだ…………みんな、そうだった』
前にそう言っていたよな。
神埼は夏樹に頼まれて何かをやっていたのか?
そうか、そういうことだったんだ。神崎の言う『みんな』には夏樹のことも含まれていたんだ。本当は夏樹も神崎のことを利用していたんだ。そして、そうだとすると。
夏樹にとって、神崎に近付くことで得る利点とは何なのだろう。
それを考えた瞬間、さっき会った少女の顔がオレの脳裏にちらついた。
「夏樹に頼まれたのは……七瀬と友達になるように、か?」
オレがそう言うと、神崎は目を丸くした。
「何で……わかるの?」
「いろいろと。今までのことで」
非社交的な神崎が、七瀬には積極的に話しかけて友達になろうとした、らしい。そしてその時偶然にも、神崎は七瀬の好きな本を持っていた。
夏樹と神崎の関係もおかしいと思っていたんだ。実際、夏樹と付き合っていたのは神崎じゃなかった。七瀬愛稀の方だったんだ。
恐らく夏樹は何らかの方法で、神崎が七瀬と同じ病院に通っているということを知ったのだろう。
だから七瀬のことを知りたい、ただそれだけのために神崎に近付いたんだ。何てことはない、夏樹も神崎を利用していたにすぎない。
神崎と夏樹の間に、どういうやりとりがあったのかはわからない。神崎は全ての事情を知った上で、自ら進んで協力していたのかもしれないし、事情も知らずただ夏樹に都合よく使われていたのかもしれない。オレは前者だったことを願うけど。
とにかく神崎は、夏樹のために七瀬と友達になってお見舞いに通うようになる。それでその時の七瀬の様子を、夏樹に教えてあげていたんだろう。
そうすると新たな疑問が沸く。
何で夏樹は直接、七瀬のお見舞いに行かなかったんだ?
そしてあいつのあのセリフ。
『俺は野球のせいで大事なヤツの大切なものを奪ってしまったんだ』
これの大事な奴って七瀬のことか?
そうすると、七瀬の大切なものって何だ?
夏樹の謎についてちょっと解明したけど、まだわからないことだらけだ。
とりあえずオレは、夏樹と神崎が付き合っていたというわけではないことを知って安心した。
ただ――
「でも神崎は、夏樹のことが好きだったんじゃないのか……?」
胸が痛かった。そんなことを言っている自分が嫌だった。でも、知りたかった。
夏樹に利用されていると知って、神崎はショックだったろう。つまり、それほど神崎は夏樹のことが好きだったんじゃないのか?
神崎の方は見れない。オレはショーウィンドウに目をやった。辺りはすでに暗い。その中でテディベアは光を浴びて、きらきらと輝いていた。
「それはちがうよ」
神埼ははっきりと言った。その言葉にホッとした。神崎の方に目を戻す。神崎もこちらをじっと見ていた。
「ルカに利用されてるってことは、初めから知ってた」
それだけ言うと、神崎はこちらに背を向けて歩き出した。
その華奢な背中を見ながら、オレは思った。
神崎はやっぱり本当はすごくいい子なんだ。
夏樹に利用されてることも知ってた。それを承知した上で、夏樹のために七瀬と仲良くなった。
でも、本当は寂しかっただろう。神崎はすごくモテるけど、その誰とも付き合おうとはしない。それは近づいてくる奴がみんな神崎の外側だけしか見てくれないからだ。そして夏樹もそうだった。
神崎のあの寂しそうな表情の理由が、今やっとわかった。神崎はもっと自分の内面を見てほしいんだ。でも、実際はそうじゃないから寂しいんだ。周りと表面上の関係しか築けないということは本当に寂しいことだ。
オレは神崎の後を追いかけた。
そして、今までの自分をひどく後悔した。
オレだって変わらないじゃないか……
オレも、夏樹と同じだ。初め神崎に近づいたのは、この子を利用してやるつもりだった。オレも、この子の外側しか見ていなかったんだ。
周りの雑音がさーっと遠くなった。胃の辺りがきりきりと痛む。
オレも、神崎を気持ちを裏切るようなことをしていたんだ……
「ねえ、工藤……」
神崎が首だけでこちらを振り返る。歩調を緩めて、オレの隣に並んだ。いつの間にか商店街を抜け、住宅街へと来ていた。
街灯の光だけが暗い夜道を照らしている。
「ルカのこともあって、世の中はこういう人ばっかりなのかな、って思った。……だけど」
突然、神崎がぴたりと足を止めた。ここが神崎の家らしい。豪邸というほどでもないけど、中々立派な家だった。そういえば、神崎のお父さんってけっこうな地位についている人なんだよな。
神崎の家の前で向かい合うようにして立つ。オレは何も言えない。神崎の言うことを黙って聞いていた。
「キミはそうじゃないってこと……キミのことは、信じてもいい?」
不安そうな表情だった。神崎の少し不思議な色をした目が、こちらをじっと見据えている。
ちがう、ちがうんだよ、神崎。オレは心の中で否定した。
オレも同じだよ。夏樹と変わりない。ただ、神崎を利用しようとしていただけなんだ。
だけど、神崎の目を見ていたらそんなこと言えなかった。
神崎を傷付けたくはない。悲しそうな表情はしてほしくない。それに何より、オレは神崎に嫌われてしまうことが怖かった。
「……うん」
オレは神崎に向かって頷いていた。
最低だ。自分をなじる。こんなのは嘘。この子を騙している。
神崎はじっとオレを見つめた。
その瞳は昼間見るのとはちがう輝きを放っていた。夜の帳の中、辺りの闇とは明らかに質の異なる不思議な色だった。
完全な黒じゃない。完全な青というわけでもない。青が少し混じっているような黒。
それは、瑠璃色の輝きだった。
「ありがとう」
その色がちらりと揺れて、目が細められる。
神崎は笑っていた。子供のような無邪気な笑顔だった。
神崎もこんな風に笑えるんだ……笑ったら可愛いだろうなと思ったことはあるけど、想像していたものよりも、それはずっと愛らしく可愛いらしいものだった。
でも、オレはその笑顔を見て、切ないような変な気持ちになった。胸の奥がずきずきする。
最低だ、最悪だ。自分が本当に嫌になった。
この子を利用しようとしていたのに、それを嘘で誤魔化して。
「神崎……」
オレはそう呟いた。
やっぱり本当のことを言おう。
これ以上、この子の気持ちを裏切っちゃいけない。
「ごめん……神崎、ちがうんだよ……オレは……オレも、本当は……」
言いながら、ごく自然に思うことがあった。
ああ、そうか、そうだったんだ。オレはいつの間にかこの子のことを。
ようやく理解した。自分の気持ちを。この感情の正体を知ってしまった。どうして今まで気がつかなかったんだろう。自覚するのが遅すぎた。
オレは。
オレは神崎のことが――
「何をやっているんだ」
その声は突然、降って来た。声のした方を向く。そこには会社帰りらしい中年のおじさんが立っていた。
神崎の親父さんだ。すぐにわかった。親父さんはオレの記憶にある姿よりも、ずっと老けてしまったように見えた。全体的に疲れたような雰囲気をしている。目尻のシワも深くなっていた。
そして、オレが一目でこの人が神崎の親父さんであるとわかったように、この人もまた、
「き、君は」
わかっていた。オレが誰なのかということを。
「河野くんじゃないか……!」
「え……」
親父さんの言葉に1番動揺したのは、神崎だった。目を見開いてオレを見る。困惑の色を露にしていた。
「お父さん、工藤のこと知ってるの?」
そう、河野とはオレのことだった。オレの旧姓が河野だ。
神崎はどこまで知ってるんだろう。5年前に起こった事故のこと。
神崎の親父さんはバツの悪そうな表情で答えた。
「来紗、お父さんが昔に起こした交通事故のことは知っているね? 河野くんはその時の……被害者だよ」
その台詞がすべてだった。
神崎はよくわからない、といった面持ちでこっちを見た。
お父さんの方も動揺していることは同じらしく、
「何故、君がここに……来紗と一緒に……まさか君は来紗に」
と、神崎とオレを交互に見る。それからオレのことをじっと見つめた。その目に何かの強い光がぴかっと弾けた。あまり好ましいとは言えないものだった。敵意、とはちょっとちがうか。まだそこまではいかない。それに発達する以前のもの。
それは警戒の視線だった。
「久しぶり、だね」
親父さんはこちらの様子を探るように、慎重に声をかけた。年下の相手に話しかける時の親しみや気楽さなんてなかった。ただオレの一挙一動に注目し、警戒をしていた。
「そう……ですね」
オレはそんな視線から逃れたくて、俯きながら言った。
気まずい沈黙が流れる。親父さんも何と言っていいのかわからないのだろう。まさかオレとまたこんな所で会うとは思ってもみなかったことだろうし。
しかも、その男が自分の娘と2人きりでいたとなれば――
「君が、私のことを好ましく思っていないことは知っている……」
神崎の親父さんはようやく口を開いた。オレは顔を上げた。親父さんはやはり友好的な様子など微塵もない、鋭い目をしていた。
「だからこそ聞いておきたい。何故、来紗といっしょにいたんだ? 来紗に何をするつもりだった? 君はまさか」
今度は親父さんの方から視線を反らした。まるでオレに怯えているかのようだった。
「あの時の憂さ晴らしでもするつもりだったのか?」
「別にオレはそんなつもりは……」
神崎の方に視線を移す。神崎はまだこちらを見ていた。何かを言いたげな様子だった。そして、見たことのない悲しそうな表情をしていた。
さっきとは目の色が変わっている。他の人なら気付かないような些細な変化だったが、オレにはわかる。
あの瑠璃色の輝きがなくなっている……
神崎の瞳はそれとはちがう、もっと暗い色をしていた。
さっき、ついさっきのことだったんだ。神崎にはもう寂しい顔をしてほしくないって思ったのは。あの気持ちに嘘やためらいはなかった。なのに。
それなのに。
オレはどうして神崎にこんな顔をさせてしまっているのだろう。
頭をがつんとやられたかのような気分だった。言い訳なんて意味がない。だって神崎の親父さんが言っていることは真実だ。
初めオレが神崎に近づいた理由は――
この子を利用してやるつもりだったんだから。
オレは神崎がこの人の娘であると知っていた。知っていたからこそ声をかけたんだ。そして神崎に近付くためにくまさんの謎を解こうと思った。
全てはこの人に会うために。あの事故を起こした本人と接触したいがためにやったことだった。
最低だ。最悪だ。オレは神崎のことをこの人に会うための手段くらいにしか思っていなかった。
……ごめん……ごめん、神崎……オレには神崎のことを大事だなんて思っていい資格がなかったよ……
喉の奥が引きつるようになって言葉がでない。神崎の親父さんはそんなオレを見て、
「あの時のことは本当に心の底から謝罪したい、申し訳なかった」
突然、そう言った。
「君が私のことを怨む気持ちももっともだ」
窺うようにこちらを覗く。
その視線でわかった。この人はオレに怯えているんだ。
この人はオレがあの時の復讐をするために神崎に近付いたのだと思っている。そして、大事な娘が傷付けられてしまうかもしれないということに怯えているんだ。
「すまない、申し訳ない……」
親父さんは呻くような声で言った。
「君には、本当に申し訳ないことをした」
頭を下げる。綺麗に90度腰を曲げた模範的なお辞儀だった。
こんな立派な大人の人に、こういったへりくだった態度をとられたことなんて今まで1度もない。オレはどうしていいかわからず、うろたえてしまった。
その後、神崎のことを見ることは一切できなかった。
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