オレに野球を教えてくれたのは、うちの親父様だった。
教えてくれたというより、「無理やり教え込まれた」って言った方が正しいのかもしれないけど。
オレが小学校に入学すると同時に、親父様は新品のバットとグローブを喜々として買い与えてくれた。男の子ができたら、一緒にキャッチボールをするのが昔からの夢だったらしい。(ちなみに、うちの親父様、というこの言い方は、元々は姉貴が使っていたものなんだけど、いつの間にか家族全員が父親のことをそう呼ぶようになっていた)
オレはその頃からやったこともないのに野球が大好きだった。多分、というか絶対に、赤ん坊の時に洗脳を受けたのだろう。そして同じく洗脳を受けてしまった妹と共に、ナイター中継を見てルールを教わり、親父様の高校時代の話をたくさん聞いた。
毎週日曜日の朝になると、親父様はオレを叩き起こした。そして、近くの公園に連れていってキャッチボールの相手をさせた。オレは眠い目をこすり、朝飯前でぐーぐーなる腹を押さえながら、親父様が楽しそうに放ってくるボールを受けていた。ボールは軟球だったが、それでも身体に当たると痛かったし、無理に取ろうとして転び、すり傷を作ったこともあった。
だけど、オレはそのキャッチボールが楽しくて仕方がなかったんだ。だから毎週毎週、親父様と見学に来る妹と共に、休まず公園に通った。それでくたくたになるまでボールを投げたり、バットを振ったりした。それだけのことが本当に面白かった。だから、もっともっと野球のことが好きになった。
それでも……
今から思い返してみると、あの時1番楽しそうにしていたのはオレでも妹でもなくて、やっぱり親父様だったように思うんだけど。
そんな昔のことを思い返しながら、オレは昼休み学校の屋上に来ていた。手持ち無沙汰にポケットに入れておいたボールを出して握る。
このボールも元は親父様のものだった。年代ものらしく、多少汚れてしまっている。ただのボールじゃない。昭和時代、怪物と呼ばれるほどの成績を残した江川のサイン入りボールだ。親父様の宝物だった。練習には使わないで、大切に保管しとくようなものだ。それでもこれを1度だけ使ったことがあったけど……。
って、一応これって親父様の形見ってことになるんだよな。そんなもんを下に落としてなくしたりしたらシャレにならない。結局ボールはポケットにしまった。
代わりに屋上の景色を観察してみる。屋上に来たのはこれが初めてだった。
今じゃ自殺防止のためかはどうかよくわからないけど、大抵の学校で屋上は立ち入り禁止になっている。扉には鍵がかかっていて入ることもできない。前の中学も高校もそうだった。そして、この学校でもそれは同じ。本当は鍵がかかっていて、生徒は立ち入れないようになっている。
それなのに何でオレが今屋上にいるかというと――何故か夏樹がその鍵を持っていたからである。どうも勝手に合鍵を作ったものらしい。暇な時にここで喫煙をするとか言っていた。どうやってその合鍵を作ったのかってことの方を1番聞きたかったのに、それは教えてくれなかった。
謎だ。
あいつはくまさん並みに得体が知れない。
今日は天気こそいいが、風が肌を切るように冷たい。ここにいてもただ寒いだけだ。オレは寒さに首をすがめながら、眼下の住宅街とか道路とかを眺めていた。
そうしてしばらくして……
背後でガタンと音がする。錆付いた扉が開閉する重い音。
振り向くと、神崎が入ってくる所だった。
神崎は真っ直ぐこちらにやって来ると、オレとは距離を取って横に並んだ。
「今度こそ謎が解けたって」
神崎は静かに訊いてくる。オレは頷いた。
「うん」
まあ、オレが解いたんじゃないけどね。
「じゃあ教えてよ」
「その前に聞かせてほしいんだけど」
そう言うと神崎は怪訝な顔をした。オレは尋ねてみた。
「神崎と夏樹って、いったいどういう関係なんだ?」
それは気になっていたことだった。夏樹にくまさんの真実を聞いたときから、神崎に尋ねてみようと思っていたことだ。
昨日の夏樹は様子がおかしかった。神崎のこととなると、夏樹はいつものクールな仮面が少し剥がれるような気がする。
だから、こいつらの間にはなにかあるんじゃないかと思っていたんだけど……
「何でもないよ」
神崎はすぐに答えた。本当に何でもないことを話す口調だった。表情にも特に変化はない。普段の仏頂面。
「何でもないって――」
「赤の他人」
神崎は切り捨てるような口調で言った。有無を言わせない感じだった。
何だかオレは釈然としない。
「でも……」
「用がそれだけなら帰るよ」
神崎は露骨に顔をしかめる。すぐ不機嫌になるんだ。
「わかったよ、もう聞かないから」
仕方なく、オレはそう言った。
そして、屋上に神崎を呼び出した目的を果たすため、くまさんの謎についてを話すことにした。
森のくまさんの謎は案外、簡単で下らないものだった。
そもそもその謎とは、くまさんのつじつまの合わない行動のことだ。おじょうさんにいきなり逃げろと言ったかと思うと、すぐに後ろからついてきて落し物を届けるというもの。
でも、実はそこに間違いがあったんだ。その部分の歌詞はこうなっている。
くまさんの言うことにゃ おじょうさんお逃げなさい
ここで注意しなきゃいけないのは、歌詞の中では、くまさんの言うこと"には"とはなっていないということだ。あくまでくまさんの言うこと"にゃ"である。だから必ずしも「おじょうさんお逃げなさい」って言ったのはくまさんじゃないのだ。
逃げろ、と言ったのはくまさん以外の誰か。そして、考えられるその人物は――歌の語り手である。
つまり森のくまさんとはこういうストーリーなのだ。
くまさんがまずおじょうさんの落し物を拾う。くまさんはおじょうさんに、おーい、落としてますよーとか声をかける。そこで、歌の語り手がおじょうさん言う。『くまさんの言うことからお逃げなさい』と。そのせいでお嬢さんは勘違いしてくまさんから逃げ出してしまう。
と、まあ、そういうわけだ。親切なくまさんと早とちりをしてしまったおじょうさんのお話。いかにも童謡らしいシナリオ。くまさんの言うこと"にゃ"とは、くまさんの言うこと"から"という意味だったんだ。『から』だとメロディの文字数が合わない。だから、"にゃ"にしてそこの表現をあいまいにしたってだけ。
くまさんが逃げろって言ったんじゃない。それは勘違いだ。
と、これが夏樹の説である。
わかってしまうと実に簡単で下らない話だった。
神崎はオレの話を一言も口を挟まずに聞いていた。こちらを見ずに、視線は前の景色に据えたままだ。何かを考え込む面差しをしている。聞き終えた後もしばらくそのままだった。前を見ながら口を閉ざしている。
沈黙が訪れた。
今の話がまちがってたのかな、とオレが不安にかられ始めた頃。
強い風が吹いた。神崎は乱れた髪を片手で押さえる。
「……まあ、いいよ」
神崎は言った。
「まあ? いいよ?」
オレは首を傾げてその言葉をくり返した。
神崎がこちらを向いた。意志のある強い視線がオレを貫く。
「キミと付き合ってあげても」
はっきりとした口調。
「え? あ? はあ……」
呆気にとられて、オレはそんな間抜けな返事をする。
そんな上から目線でものを言われるとは思わなかった。
「まあ、いいよ」って。「付き合ってあげても」って。何だろう。こうなることを望んでいたはずなのに、あんまり嬉しくないんですけど。
神崎はもうオレに用はないらしい。そのままくるりと方向転換すると、オレには一言も声をかけず、屋上を出ていってしまった。
ばたんと閉まる扉。1人取り残されるオレ。つかの間呆然としていた。
「何か……」
それは夏樹のこととか。ちょっとこじつけ臭いくまさんの真実のこととか。神崎の態度のこととか。いろいろなことがからみあって。
「何かすっきりしないんだよなー……」
独りごちて空を見上げてみる。
オレの内面とは裏腹に、空は雲1つないからっとした快晴だった。
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