部活が終わって、オレは真っ直ぐ図書室に向かった。夏樹に会うためだ。
図書室は閉館間際ということもあって閑散としていた。もともと利用人数も少ない。オレはそれも、夏樹が図書委員をやってるせいじゃないかと邪推しているけど。夏樹、ルールに無駄に厳しいし怖いし。わざわざ見た目の怖い図書委員に睨まれながら勉強しなくても、他に自習室はある。
いつも夏樹が座っているカウンターを見た。夏樹はいなかった。代わりに司書さんが座っている。もう帰ってしまったみたいだ。何だ、無駄足だったな。せっかく夏樹の提示した条件を果たしたのだから、くまの謎を教えてもらおうと思ったのに。
他に図書室に用はないので、すぐ帰ろうとした。
すると。
「工藤」
呼ばれて振り向いた。奥の自習室からやって来たのは神崎だった。
「何しにきたの」
そう言う神崎は相変わらず無愛想だ。でも、何かがちがう。ああ、そうか。いつものような迫力がないんだ。相手を威圧するものではなく、少しだけ弾んでいるような声だった。気のせいかもしれないけど。
「夏樹、いないのか?」
一応訊いてみると、神崎は突然ぐっと顔をしかめた。
「――知らない」
唇を尖らせて言う。打って変わって冷たい声だ。何でいきなり不機嫌になるんだよ……。神崎の考えていることってよくわからない。
神崎は仏頂面のままオレの横を通り過ぎて、そのまま図書室を出ていってしまった。オレ、何か気に触ることしたか? 夏樹のことを訊いただけじゃないか。
神崎ってよくわからないヤツだよなあ。オレも図書室を出ながらそんなことを思った。
というか、変な子だ。何で森のくまさんのことを真剣に考えているのかわからないし。性格にしても気が強くて偉そうにしているかと思えば、田村たちのいるかもしれない教室に行くことを渋ったりと弱いところもある。1人でも平気そうだったり、いきなり淋しげな表情を見せたりもしていた。
そして思い出してしまうのは、田村たちに転ばされてそのまま立ち上がれなくなっていた神崎の姿だ。苦しそうな顔や、青くなった頬、冷たい手の感触が脳裏によみがえる。あの時はただでさえ華奢で小さな身体がさらに小さくなって見えた。体育の授業もいつも欠席だ。身体が弱いみたいだけど、実際どうなんだろう。大丈夫なんだろうか。神崎に直接確かめてみれば良かった。
今見た時はだいぶ顔色が良くなってたから安心したけど。
っと、……あれ? 変だ、何かおかしいぞ、オレ……。オレは神崎のことが嫌いなんじゃなかったっけ?
それなのに何で神崎の体調のことで、心配になったり安心したりしてるんだろう。オレは神崎のことを嫌う理由だってあるし、恨んでいると言ってもいいはずなのに。
神崎のことは嫌いだって心の中で唱えてみても、どうもそれに感情がついてこない。理屈と感情は別物って言うけどそういうことなのか? そんな自分に納得がいかなかった。少し話しただけでころっと心変わりしてしまうのも単純すぎる気がする。
と、そんなことを考えながら歩いていたら。
校門を出て、少ししたところで神崎の背中が見えた。道端に立ち止まって困ったように来た道を振り返ったりしている。どうしたんだろう。
目が合った。
すると、さっきから自分が神崎のことばかり考えていたことに気付いて、恥ずかしくなった。
「どうした?」
それを悟られないようにして、ついぶっきらぼうな口調になってしまう。
神崎はむすっとした顔で言った。
「……忘れものした」
「何を?」
「お弁当袋」
そうか、オレが神崎のカバンを取りに行ったから、そのまま置いてきちゃったんだな。
「明日でいいんじゃないか」
と言うと、神崎は首を振った。
「大事なものが入ってる」
「じゃあ取りに行けば? 学校まだ閉まってないだろ」
神崎は迷うように視線を散らした。動こうとしない。
「行かないのか?」
「……行くよ」
そう言いながら神崎は動かない。根が生えたみたいにその場に立ち尽くしている。どうも行きたくないみたいだ。
オレはさっきも同じ状況があったことを思い出して、
「もうさすがに教室にあいつらはいないぞ」
「そうじゃなくて」
「鍵は職員室にあるだろ、事情を話せば貸してくれる」
「……うん」
そういうわけでもないようだ。じゃあ他にどんな理由があるというんだろう。
「怖いのか」
冗談半分で言ってみた。この気の強い女がそんなこと思うわけないか、などと考えながら。果たして神崎はむっとした顔をした。
「バカじゃないの、そんなことない」
やっぱりなあ。神埼ってそういうタイプには見えないもんな。
よほど気分を害されたらしく、神崎はまだぶつぶつと言っている。
「信じられない、そうやって人をバカにして」
ん? いや、待て……
「今バカにしたのは神崎の方だろ」
「そっちがバカなこと言ってくるから」
「バカなことって何だよ、もう勝手にしろよ」
「うるさい、言われなくてもそうする」
や、やっぱりこういうとこ可愛くないよなあ……。神崎が勝手にすると言っているのでオレは放っておくことにした。
神崎を追い越して歩く。そのまま振り返らずに行ってしまうつもりだった。
しかし、10歩ほど距離が開いたところで。
「…………工藤」
細いけれど輪郭のはっきりとした声が、オレの背中に当たった。
*
「うわさ、聞いたことない?」
神崎は顔こそ無表情だけど、いつもよりトーンを落とした声で言った。
「うわさ? 何の?」
その隣を歩きながらオレは尋ねる。声が廊下の奥の方まで響いた。
校舎の中はしんと静まり返っている。
下校時刻はとうに過ぎているんだから当たり前だ。今、校舎内にいるのは残った先生たちとオレたちだけだろう。
外はすでに真っ暗で、廊下を照らすのは蛍光灯の光だけ。光の届かない隅の方には闇が滞っていて、陰湿な雰囲気を放っている。夜の学校って何だか不気味だ。通い慣れてるだけあって、昼間とのちがいがはっきりと感じられる。
それにしてもオレは何をしているんだろう。呼ばれた時、つい立ち止まってしまった。その後も神崎は「ついてきて」も何も言わなかったのだが、こうして一緒に来てしまっている。
自分でも何がしたいのかわからない。相変わらず神崎が考えていることも。
結局、怖いから一緒に来てほしかったってことでいいのかな? 神崎って普段は毅然としてるからそういうタイプに思えなかったけど。今も顔だけなら、怖がったりしているようには全く見えない。
「だから……」
神崎はためらってから小さな声で、
「この学校の下に、昔戦争で亡くなったヒトがいっぱい埋まってるとか……誰もいないはずのトイレの水が勝手に流れるとか……あと階段の段数が増えたり減ったり……」
って、そういう話か。そんなのありがちすぎて、信じてるヤツなんていないんじゃないか?
オレは職員室で預かった鍵のプレートの部分を持って、意味もなくそれを回しながら、
「よくある話だよなあ」
「そう、なの」
「中学とか小学校とかでもそういう話あったろ」
「中学校と小学校……」
神崎は丁寧になぞるようにしてその単語を口にした。
「どうかした?」
しかし、オレがそう尋ねると途端に不機嫌な顔になる。
「うるさい、そういう話をするな」
いや、そもそも、話を切り出したのそっちだろ! 何だコイツ……。
「オレ、帰ろうかなぁ……」
「帰れば」
「うん、じゃあ帰る。そうそう、そこの」
と、通りかかった教室を示して、
「教室でたまに足のない女子生徒がイスに座っていたりするって話だけど、気をつけろよ。じゃあな」
そう話す間に神崎の顔は見る見る青くなっていって、オレが背を向けると慌てて服の裾をぎゅっと握ってきた。
何か神崎って素直じゃないっていうか……からかうとおもしろいかも……。
神崎はからかわれたと言うことに気付いたらしく、手を離して羞恥と怒りの入り混じった面持ちをした。そのままむすっと黙り込んでしまう。しばらくの沈黙。無言のまま、階段を昇っていく。
「工藤……」
神崎がぽつりと言った。静かな声だった。先程の怒りは霧散されてしまっている。
「工藤は、どうしてくまさんの謎を解こうと思ったの」
「ん?」
「その……えっと、だから、工藤は……」
階段の最後の段を昇りきった時だった。突然、神崎は言葉を切った。それは神崎自身の意志によるものではなく、彼女の中にある何かが言葉をそっくり飲み込んでしまったかのようだった。
どうしたんだろうと考える余裕さえなかった。次に起きたことは一瞬。引き延ばされた時間の中で、1つ1つのことが網膜に焼き付くかのようにゆっくりと展開されていく。
電灯の光の下、浮かび上がる神崎の白い頬。はかなさを感じるほど細い輪郭の線。髪が肩から顔の前へとはらりと落ちる。それはまるで、この期に及んでもまだ自分の表情の変化を悟られまいと強がるかのようだった。
しかし、オレは見てしまった。
神崎の顔付きが苦しげに歪んだ様子を。
顔は真っ青、唇は紫色になっている。額にびっしりと冷や汗をかいていた。
肩からカバン滑り落ちる。教科書等がたくさんつまっているのだろう、それは床に当たって重い音を立てた。
神崎は両手で胸元を押さえた。苦鳴になりそこねた空気の塊が唇からもれる。
「神崎!」
ただごとじゃない。神崎は指が白くなるほどの力で胸を押さえている。
胸……心臓か? 身体が弱いって心臓が悪いということだったのか?
神崎はとうとうその場にしゃがみ込んでしまった。呼吸するのも辛いらしく、肩で浅く息を継いでいる。
「大丈夫か!?」
どう見ても大丈夫ではないのにそんなことしか言えない。気休めにすらならない言葉。そんな自分がもどかしく腹立たしい。
うずくまる神崎。苦悶に満ちた表情。その足元には暗い影が沈んでいて、そのまま神崎が闇に呑まれてしまうんじゃないかという気すらした。
オレはただ見ていることしかできなかった。頭の中が真っ白になって、何とかしなきゃという気持ちだけが空回りする。
どうしたらいいんだよ、何とかしないと――
そこでようやく、誰かを呼んでこないとという考えが浮かんだ。それでオレが職員室の方へつま先を向けた時。
今にも消えそうなほどの小さな声が聞こえた。
「……すり……」
「え?」
振り返る。神崎は絶え絶えな息の間から言葉をしぼり出す。
「お弁当袋……ってきて」
すぐには反応できなかった。神崎がこちはを上目使い見て、懇願するように言う。
「おねがい……っ」
それでオレは弾かれたように飛び出した。廊下を走って教室へと向かう。
あんなに弱々しい神崎なんて見たことない。うずくまる小さな背中。細い肩。苦痛に歪んだ顔。神崎が押さえていた場所は心臓だった。
心臓が悪いんだ……そう思うと、自分の胸に重圧のようなものがどすんと下りて来た。
ただ漠然と、「身体が弱い」と言われるのとはちがう。オレは実際に神崎が苦しんでる姿を見てしまった。それにまさか心臓が悪いなんて。
心臓って体の中心部じゃないか。そこが悪いなんて。考えるだけで恐ろしいことだった。
神崎はこういう気持ちを毎日抱えて、過ごしているんだろうか。あの仏頂面や強気な態度の裏に隠して。オレなんか1度その事実と向き合っただけで、こんなにびびってるというのに。
そして、オレは弱り切った神崎の姿を見て、うちの親父様のことを思い出さないわけにはいかなかった。まだ記憶に新しいあの出来事のことを。
うちの親父様はオレの中で最上級の褒め言葉を使って表すと、本当にただの野球バカだった。さすが元球児というだけあって、3度のメシより野球が好きで、シーズン中は毎日TVにかじりついてお気に入りの球団を応援していた。ビール片手に。
小さい頃からよくオレも、キャッチボールの相手をさせられたもんだ。
体の方もとにかく頑丈で、ちょっとやそっと具合が悪いくらいでは決して会社を休まなかった。もともと病気にかかることなんて滅多にないことだったが。いつも元気でいるための秘訣は「気合い」だそうだ。「気合い」さえあれば、病気にかかることなんてない、とも言っていた。
うちの親父様は、熱苦しくて、やかましくて、素敵なおバカで、ちょっとうっとおしいけど、でもとにかくたくましい、そんな人だったんだ。
その親父様が突然倒れたのが……今年の5月のことだった。
肝臓の病気だった。慣れないことばかりで無理と疲労が溜まっていたんだろう。
姉ちゃんも妹も泣いていた。連絡を受けてさすがにやって来た母親も、動揺を隠しきれていない様子だった。
それからたった2ヶ月の間。元気なことだけが取り柄だったはずの親父様は、どんどんやせ衰えていった。頬はこけ、目からは活気が少しずつ消えていって。
信じられなかった。あの頑丈の親父様がこんなに弱っていくなんて。
弱り切った親父様を見て、オレはこの人が自分の知っている親父様とは別人なんじゃないかとさえ思ったほどだ。
そうして今年の7月のこと。うちの親父様は家族に見守られながら、静かに息を引き取った。
父親が死んだ。いなくなってしまった。
そのことが未だにオレの中では実感が沸かない。
あの元気なバカ親父がもういないなんて。そのうちひょっこりグローブ片手に戻って来て、「よし、キャッチボールでもやるか!」とか言い出すんじゃないかと思ってしまう。
そういうことはもう絶対に有り得ないんだということは、わかっていても。
親父様がいなくなってから、オレと妹は学校を変えなくちゃならなくなった。引っ越す必要があったからだ。
そして、親父様の元で暮らしていた妹とオレは、夏休みの間にまた母親と姉の所に戻ることになったのだった。
そういったことを思い出しているうちに、教室にたどり着いた。
教室の中は暗かった。廊下と窓から入ってくる明かりで、机の配置がぼうっと見える。オレは真っ直ぐ神崎の机に向かい、机の横にあったお弁当袋を取ると、すぐに神崎の元へと戻った。
神崎は元の場所から動かず、屈み込んだままの姿勢でいた。
その姿はあまりにも危うくはかないもので、オレはこのまま神崎が足元にたまった闇に消えていってしまうんじゃないかと不安にかられた。
「神崎!」
だから、そうなってしまわないように、いつもの生意気で可愛くない神崎にまた戻ってくれるようにと願って、強く名前を呼んだ。
神崎はゆっくりと顔を上げた。顔面蒼白だ。苦痛に歪みながら、目が虚ろになっている。すぐにお弁当袋を渡した。触れた手が氷のように冷たくて、オレの体温で溶けてしまいそうなくらいだった。
神崎は弁当袋を受け取ると、その中から小さな袋を取り出した。薬だった。そしてそれを開けて、口の中に含ませた。
神崎はしばらくしゃがみ込んだままだった。まだ苦しそうだ。薬を飲んですぐ治るわけないということはわかっていたが、不安で仕方なかった。
それからどれくらいの時間が経ったか。オレには30分にも1時間にも感じられたけど、実際は数分程度のことだったろう。
神崎がのろのろと立ち上がった。まだ顔色は悪かったけど、いつも通りの表情をしていることにオレはいくらかホッとした。神崎の場合、いつも通りの表情とは仏頂面のことを指す。
「大丈夫か?」
すぐに聞いてみる。神崎はこくんと頷いた。
「……へいき」
だけど、声はかすれているし、唇は真っ青だ。あまり平気そうじゃない。
神崎が床に落ちたままだったカバンをとろうとしたので、その前にオレが拾ってやった。カバンはそれなりに重い。今の状態の神崎に持たせるわけにはいかない。
しかし、そんな当然の好意も神崎には全く通用しないものだった。
「ちょっと、返してよ」
「何でだよ……別に盗るわけじゃないぞ」
「いいから返して」
「具合が悪そうだから、持ってあげてるんだよ」
「そういうこと恩着せがましく言わないでよ」
そんな可愛くない台詞も、今はやけに嬉しかった。やっと元通りの神崎に戻ってくれた気がして。やっぱり神崎はこれくらい生意気じゃないと。
ふと、脳裏にさっきの苦しそうな神崎の姿がちらついた。同時にある疑問が沸き上がってくる。
――神崎は病気なんだろうか?
――そうだとしたら、それはどれくらい悪い病気なんだろうか?
でも、それを神崎本人に直接尋ねることはできなかった。オレがどうしようもない臆病者だったからかもしれない。
答えを聞くことが怖かったんだ。
もし、本当に悪い病気になんだとしたら、オレは神崎とどう接すればいいのかわからなくなる。
神崎の方をちらりと見ると、カバンを返してもらえないのが不満らしく、ふて腐れた表情でこちらを睨んでいた。何だかすねた子供みたいな顔だ。
笑ってみればかなり可愛いだろうに、とそう思った。でもあるいは、そんな簡単なことも神崎にとっては難しいことなんじゃないだろうか。
――もし、神崎の心臓が本当に恐ろしい闇を抱えているのだとしたら。
他の子たちと同じような感覚で笑うことができないのは、当然のことなのかもしれなかった。
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