森のくまさんの童謡は知っている。でも、その「謎」というのが何なのか、オレにはわからなかった。
森のくまさんの謎って何だ?
歌詞に変な箇所でもあるんだろうか、と考えてみたのだが……それ以前に気付いた。
オレは森のくまさんの歌詞を全部言えないことに。初めと終わりは覚えている。話のあらすじも知っている。それなのに、途中の歌詞がわからなかった。
ある日森の中 くまさんに出会った
花咲く森の道 くまさんに出会った
初めは確かこうだったはずだ。
わからないのはその次。
2番と3番の歌詞がサッパリ出てこない。おじょうさんがくまさんを怖がって逃げ出す、という場面のはずなんだけど。
それを抜かして4番と5番ならわかる。
おじょうさんお待ちなさい ちょっと落とし物
白い貝がらの 小さなイヤリング
あらくまさんありがとう お礼にうたいましょう
ラララララララ ラララララララ
これであってるはずだ。オレの記憶が正しければ。こういうのって途中だけが思い出せないと気持ち悪いし、1度気になるとどうしても知りたくなってしまう。
だから、まずは歌詞を調べてみることにした。
と、いうわけで、放課後に図書室に来てみたんだけど……
いきなり困った。
利用客は少ないくせに、うちの学校の図書室はムダに広くて、蔵書もいろいろなジャンルのものがそろっていた。ちょっと前まで文庫と新書のちがいすらわからなかったオレには、どこに何があるのか全くわからない。図書室なんて滅多に来ないからなー。
ふと見ると、貸し出しカウンターの隣に検索用のパソコンが置いてある。よし、とりあえずこれで探してみるか。何の言葉で検索してみればいいのか迷うが、とりあえず、「森のくまさん」と入れてみる。ヒットなし。うーん。そりゃそうか。森のくまさんだけで1冊本が書けるわけないし。
いきなり詰まってしまった。どうしよう。というか、そもそも森のくまさんの歌詞がのってる本ってここに置いてあるんだろうか。有名な歌だからきっと簡単に見つかるだろうと楽観視してたんだけど。
と、頭を悩ませていると。
「おい、本探してるのか?」
ぶっきらぼうな声に振り向く。
貸し出しカウンターに男が座っていた。
『ちゃらちゃらしてるな』それがそいつの印象だ。シャツはだれだれだし、手首や首元には装飾品がじゃらじゃらだし、耳にはピアスまでつけている。その上、軽薄そうな色の茶髪。それらが下賤な感じではなくて、むしろ洒落ている風に見えるのは整った顔立ちのおかげだろう。
むー。美形の男を見ると胸がむかむかするのは、オレの心が狭いせいかな。
そいつはカウンターに両足を乗っけた姿勢で本を読んでいた。ちらりと見えた本の題名は『銀河鉄道の夜』。オレでも名前を知ってるような有名どころだ。
何だかそいつのちゃらちゃらとした印象と合わない。そもそも図書室というこの空間がそいつの雰囲気に合ってない。ゲーセンとかそういう場所にいる方がはるかに自然だ。
こいつ、図書委員なのか? ただの柄の悪い不良にしか見えないんだけど。
男は本から顔を上げて、
「何の本を……あー、いや待て。俺が当てる」
じろりとオレを睨んでくる。こ、怖っ……目付きがすごく悪い。
あれ? でも、その目に妙な既視感を覚えた。こいつの顔、どこかで見たことがあるような?
「くまの歌を探してんだろ?」
そいつは断定する口調で言ってきた。図星だ。オレは頷いた。
「え、そうだけど……何でわかるんだよ」
ちょっと感心してそう言うと、そいつはおもしろくもなさそうに答えた。
「あー、やっぱりな。音楽関連は右の一番奥の棚だ」
投げやりな口調。って、やっぱりこいつ図書委員なのか……。
カウンターの奥に今週の当番と書かれたボードがあって、そこには夏樹(なつき)という文字があった。
じゃあたぶん、こいつが夏樹なんだろうな。
夏樹は澄ました顔で読書に戻っていた。外見はどこからどう見ても不良だが、長い指がページを操っている様は優雅だ。
夏樹、か。どこかで聞いたことあるような気がする。
オレは礼を言って、示された本棚へと向かった。
意外に音楽関連の本は多かった。音楽史から、作曲家の伝記、楽譜まで様々な本がある。森のくまさんの歌詞はどの本にのってるのだろう。本の名前を見ただけじゃわからない。仕方がないから、1番上の段から1つずつ確認していくことにした。時間がかかりそうだ。
そして、1つめの本を手に取った時。
「やっぱりメロンパンだろー」
いきなり無遠慮な音量の声が耳朶を打った。後ろからだ。図書室の奥は自習スペースになっていて、机とイスが並べられている。
2人の男がイスに座って、ジュースを飲みながら話をしていた。
ここは図書室でちゃんと勉強しているヤツだっているのに、周りの迷惑は一切顧みない大音量だった。
「いやいや、ここはイチゴチョコクリームパンだ」
「何を! イチチョコなんて邪道だっ。ここはもふもふのメロンパンが……」
友人同士の会話は大抵、第3者が聞いているとどうでもいい内容になることが多いが、そいつらの話は心底どうでもいいものだった。というか、パンについて熱く語るなよ!
うるせーなー。その2人を睨みつけていると、誰かがそいつらの元に歩み寄ってきた。あ、夏樹だ。歩き方まで威圧的だった。両手をポケットの中につっこみ、肩を揺らしながら歩いていて、「あん? ヤンのかてめぇ」と勝手に台詞を付けてみたくなる。
そして、夏樹は2人の男子の元へと行くと……
突然、バカ騒ぎしているヤツのイスを蹴り倒した!
イスとともに倒れる男。派手な音が響く。2人の男は目を白黒させて夏樹を見る。きーんという沈黙が訪れた。
「てめぇら、ここがどこだかわかってんのか?」
ドスの利いた声。夏樹は倒れた男の胸倉をがっと掴んで、そのまま立たせる。見た目が不良っぽい上に恐喝じみた口調に迫力がある。はたから見ていても普通に怖い。
「ああ? 訊いてんだよ、答えろ! ここはどこだ!」
「と、図書室、です……」
相手は震えながら答えた。か、かわいそうに。今にも泣き出しそうだ。何せ相手はいきなりイスごと蹴り倒してくるようなヤツだし。
恐怖のあまり自分で立つ気力すらないらしい。両足には力が入っておらず、夏樹の手につられるような形になっている。
しかも、夏樹はいきなりばっとその手を離した。相手はその場で尻餅をつく。
「そうだ、なら私語は慎め。それとここは飲食禁止だ」
注意をしているというより、それはやっぱり脅しの口調だ。「金出せ」とか言ってるみたいな。
こ、こええ……。オレに向けられた台詞ではないのに、思わず萎縮してしまう。
相手は壊れた首振り人形みたいにこくこくと頷いていた。夏樹はけっと言って、もう1度倒れたいすを蹴っ飛ばした。
そして、貸し出しカウンターに戻ろうとして、今度はこちらを睨んできた。
「おい」
え、お、オレ? 他に誰かいるのかと思ったが、後ろは本棚だ。
や、やばい。『何じろじろ見てんだ、おらあ!』とか怒鳴られるのかもしれない。
そう思って、身を固くしていたが、やって来た夏樹は本棚の前でしゃがんでしまった。
あれ?
「童謡はここだよ。ほら、この本だろ」
本を取り出すためだったらしい。親切だなー。見た目は怖いけど。そしてさっきの騒動を見る限り、中身も怖いけど。
「あ、どうも」
そう言って、受け取ろうとしたが、夏樹は本をつかんで話さない。
「言っとくけどな」
ぎろり。睨まれる。
そう険を含ませた目で見ないでほしい……寿命が縮む。下の方から睨まれてるので、更に目付きが悪くなって凶悪さ3割り増しだ。
うーん、でも、やっぱりこの目をどこかで見たことが――
「これは借りられないからな。本を巡って暴動が起きる。っつーか、実際前に起き」
「ああ、思い出したッ!」
喋っている夏樹を遮って、オレは言った。
「あんたのその凶悪な目付き! どこかで見たことがあると思ってたんだよ」
「……へえ?」
夏樹は面白いことを聞いたというように目を細める。
「あんたさ……この間、オレと廊下ですれ違ったよな?」
そう、確かあれはこっちに転校して来たばかりの頃。
まだオレはクラスの連中の顔もロクに覚えていなかった。だからあの日、廊下で神崎来紗と出会った時にはすごく驚いたんだ。
初めは「何でこいつがここに?」という驚愕。そして、徐々にどす黒い感情が胸の中に湧き上ってくるのがわかった。一方神崎は、オレのことに全然気付いていないようだったけど。
オレは神崎のことを、今まで忘れたことはなかったんだ。
そんな風にして、神崎のことをほとんど睨み付けんばかりにして見ていた。そうしながら閃きのようにこれからどうするべきか、復讐のシナリオっていうヤツを自分の中で作り上げたんだ。
その時だ。もう1人、そこですれ違った男がいた。それがこいつ、夏樹だった。夏樹はオレと神崎とを何故か興味深そうに見比べながら、その場を去っていった。
こちらを詮索するような目が妙に記憶に残っていたんだ。
なるほど、だから見覚えがあったんだ。思い出せた、思い出せた。
ふう、スッキリした。
しかし、夏樹は何故か、険悪な眼差しをオレに向けて来た。
「てめえ……それ、素で言ってんのか?」
「え?」
何が?
夏樹は機嫌の悪い面差しをしている。
束の間オレは考え、何で夏樹がそんな怖い顔をしているのかの理由にいたった。
そうか、こいつ先輩なんだ!
「って、うわ、すみません、先輩に対してタメ口っ……こ、これからは気をつけます!」
「は? お前、まさか……」
言いかけて、こちらをじろじろと見る。何かを言いたげな表情だ。しかし、結局夏樹はそれ以上こちらに話しかけることなく、
「うぜえ……」
そう吐き捨て、カウンターの方へと立ち去っていった。
何だよアイツ……オレ、何か気に障ること言ったか?
夏樹の後ろ姿を見送ってオレは首を傾げた。うーん、何かひっかかるな。気のせいかもしれないけど。何だろう? もやもやした感じ。
ま、いいか。
それより今は森のくまさんだ。
渡された本を見る。表紙には子供向けの絵がでかでかと描いてある。題名は「みんなの童謡」。
ぱらぱらとページをめくると、すぐに運良くくまさんの歌詞を見つけられた。
オレが覚えていた1、4、5番の歌詞はちゃんとあっていた。問題は2番と3番だが……
その2番と3番の歌詞がちょっと予想外の内容になっていた。
まずは2番の歌詞。
くまさんの言うことにゃ おじょうさんお逃げなさい
スタコラサッサッサノサ スタコラサッサッサノサ
確かに、くまさんの行動は謎だった。
え、この歌って、くまさんが「逃げろ」って言うんだっけ? オレはてっきりおじょうさんが自主的にくまさんから逃げ出すものなのかと思っていた。
というか、何でくまさんが「お逃げなさい」とか言うんだよ。逃げろって何から? 自分から逃げろってこと? わけがわからない。
そして、3番の歌詞は次のような感じだった。
ところがくまさんが 後からついてくる
トコトコトコトコと トコトコトコトコと
お前、さっき逃げろって言ったじゃねーか! なのに何故に後からついてくる?
謎だ……謎すぎるぞ、くまさん。
森のくまさんの謎って、たぶんこのことなんだろうな。つじつまの合わないくまさんの行動。何故、逃げろと言ったのか? そして、そう言っておいて何故後からついてくるのか? 確かにわけがわからない。
でも、それよりももっとわからないことは……
オレはぱたんと本を閉じて、元あった場所に戻した。
くまさんの歌詞とその謎についてはわかった。
わからないのは、何故神崎がそうまでしてその謎に対する答えを欲しがっているのか、だ。確かにくまさんの行動は謎で、どうしてそうなっているのか多少は気になる。
でも、たかが童謡だ。
オレなんかは、そうなってるんだからそれでいいじゃんとか思ってしまうのだが。どんな小さな矛盾でも詳らかにしなきゃ気が済まない、潔癖な性格をしているのか、それとも他に理由でもあるのか……
でもまあ、神崎自身のことなんかどうでもいいか。重要なのはこの謎を解いて、神崎に近付くことなんだ。
そろそろ部活が始まる時間だった。くまのことは後で考えよう。考えるといってもそれほど本気になることはなくて、適当にそれっぽいこじつけで神崎を納得させちゃえば良いか、ぐらいの気持ちだったが。
そんなことを思いながら、図書室の出入口に向かった時。
ドアを開けて誰かが入って来た。その人物を見てオレは驚いた。入って来たのは神崎来紗だったのだ。うわ、偶然だな……ってそうでもないのか。神崎っていつもここで勉強してるんだったっけ。
神崎もオレに気付いてその場で立ち止まった。相変わらずのきつい目線。気に入らないものを見る目だった。は、腹立つなー……! いったい何が気に食わないんだよ。
普通なら挨拶ぐらいするところだろうが、その気に失せた。どうせ声をかけたところで、神崎の場合どうせ無視されるか、冷たく返されるだけだ。そもそもオレは神崎のことが嫌いだった。この全く可愛くない性格もそうだけど、やっぱり昔のことを思い出してしまう。
とにかくオレは、知らん顔でその横を通りすぎようとした。
だけど。
「ここ、図書室だよね」
何と神崎の方から話しかけてきた。かなり驚いた。
神崎も何に驚いているのか、目を丸くしてこちらを見ている。信じられないものに出会った目付きだ。そして、驚いた表情のまま言った。
「工藤……本が読めたの?」
ぜ、全力で失礼な。会うなりそれかよ。というか、まだ1度しか話したことないのに、そういうこと言うか? 本当に可愛くないな……。
当然、オレはむっとした。
「何だよそれ。バカにしてんのか」
「いや。素直に驚いてるんだけど」
「そーゆーのをバカにしてるって言うんだろ」
「してない。というか声大きい。うるさい」
「かわいくない奴だなぁ……というか神崎ってホントに性格悪いよな」
「は? 何でそんな失礼なこと工藤に言われなきゃいけないの!」
「先に失礼なこと言ってきたのそっちだろ!」
そしてオレが更に言い募ろうとすると。
「うるせぇ!」
突然の怒声に、オレと神崎は同時にびくっとした。
声のした後ろを見ると、夏樹がカウンターの向こうからこちらを睨み付けている。
「てめぇら図書室で騒いでんじゃねぇよ! ケンカすんなら表行け!」
いや、夏樹のその怒鳴り声の方がうるさいんじゃ、とかちらっと思ったけどもちろん黙っておく。代わりに「すいません」と無難に謝った。荒波は立てたくないし……というか、夏樹怖いし……。
が、神崎の方は謝る気がない、ってか自分は全く悪いと思ってないらしく、
「工藤のせいでルカに怒られた」
と、オレに責任を押し付けてきた。何でオレだけの所為にするかなあ、そもそも先につっかかってきたのは神崎の方じゃないか。
って。ちょっと待った。
「ルカ?」
今そう言ったよな? ルカっていったい何のことだ?
「ルカって?」
尋ねると、神崎は真っ直ぐに夏樹のことを見た。
いや、わかるけどさ。会話の流れからして、それが夏樹のことだっていうことはわかるけどさ。それって下の名前なのか?
ルカ――神崎が当然のように、夏樹を呼び捨てにしたことにも驚いたが。それよりもルカって名前に反応した。変わった名前だ。そしてどこかで聞いたことがある。
夏樹ルカ。
フルネームで呼んでみる。すると、オレの中で閃くものがあった。
1つの情景が思い浮かぶ。
くらくらとするような強い日差しの中。焼ける土。白球が飛ぶ球場。マウンドに立つのは野球帽を目深にかぶった少年。
小学生のくせにやけに酷薄で冷たい目線がこちらを貫く。
冷静な態度を最後まで崩すことなく、1人で投げきった。
剛速球。
すごいと思った。ボールの速さだけでない。バッターボックスに立って対峙してみればわかる。肌を刺すような威圧感。小学生の少年が大人さえ圧倒するほどの存在感をはなっていた。
あの子は10年に1人の天才だ、とそう聞いた。
そうだ、思い出した。夏樹のこと思い出した。同時に叫んでいた。
「夏樹ルカ!?」
夏樹が顔をしかめてこちらを睨んでくる。ああ、そうか。図書室で騒ぐのはダメなんだよな。
オレは貸し出しカウンターに近寄ってみた。夏樹が不機嫌な顔でこちらを見ている。
そのひねた目に、にこりともしない仏頂面。それらがオレの中の記憶とぴったり重なった。そうだ、オレは会ったことがあるんだ。こいつと、もっとずっと前に。
うわ、夏樹だ、ホントに夏樹ルカだ!
まさか、こんな所でまた会えるなんて。偶然ってあるんだなー、う、嬉しい……。
「オレのこと、覚えてないかな? 確かオレが小5の時、旭スターズにいただろ、1度だけ試合したことがあった。ピッチャーで、10年に1人の天才だって、確かにすごい球だった。話もしたよな、覚えてないか?」
思わず熱を込めて捲くし立てるオレ。しかし、夏樹の態度は実に素っ気ないものだった。思い出そうとする気配すらみせず、ただ一言。
「さあな」
と、突き放すように言う。
「野球やってたことは確かだけどな」
「オレのことは覚えて……ないのか?」
「知らん」
正直、その返答にがっかりした。
オレが夏樹に初めて会ったのは小5の時。
記憶が曖昧だけど、うちの近くの公園で知り合って、共に野球をやっているということで意気投合した。その日はキャッチボールをやっただけで、結局名前を教えてもらうこともなく別れた。それからしばらくして、偶然うちのチームが夏樹のいるチームと試合をすることになって、再会したんだ。うん、確かそんな感じだった。
つまり会うのはこれで3度目ということになる。それなのにオレのことを覚えてくれてないのはショックだ。
もしかしたら、名前を聞けば思い出してくれるかもしれない。
そうも思ったが、そばに神崎がいるので迂闊に昔の名前を出せなかった。神崎があのことについてどれだけ知っているのかはわからない。まったく興味を持っていない可能性もある。それでも用心するにこしたことはないだろう。
それにしても……
あの夏樹ルカにまた会えるとは思ってなかった。小学生の天才ピッチャー。オレはその剛速球に惹かれたんだ。たかが小学生と侮れないだけのものを夏樹は持っていた。あの球が成長した様子を見れると思うと、胸の奥がうずうずする。
でも、あれ?
そこで気付いた。
何で夏樹はこんな所にいるんだ? しかも貸し出しカウンターに座っていることからして図書委員みたいだし。
そもそも何でオレは、今までこの学校に夏樹がいることを知らなかったんだろう。当然、有名になっていておかしくないはずなのに。
転校してきたその日にオレは野球部に入部したが、先輩たちの顔ぶれの中に夏樹はいなかった。1ヶ月も練習をサボったりはしないよな。おかしい……。
そうだ。さっきの夏樹の台詞。
『野球やってたことは確か』って言ったよな。やってた? 何で過去形だったんだ?
と、そんなこちらの疑問を察したかのように、夏樹は言った。
「まあ、もう野球はやめたけどな」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。夏樹の言ったことが理解できない。おい、うそだろ?
だってあの天才ピッチャーだぞ? 10年に1人と言われてたんだぞ?
夏樹あの時言ってたじゃないか。『俺は投げるためにいるんだ』って。小学生のくせにそんな生意気なことを言ってただろ? そして、その言葉を誰にでも納得させちゃうほどの球を投げてたじゃないか。
「何で……何でやめちゃったんだよ」
思い切り気の抜けた声でオレは尋ねた。
一瞬、別人なのかもしれないと思ったが、今目の前で本を読む夏樹の面持ちは、マウンドに立っていたあの少年の面影と重なるのだった。
まさかあいつが野球をやめていたなんて。
落胆した。オレのことは覚えてくれてなくても構わないけど、こんなことは予想もしていなかった。
夏樹は本に視線を落としたまま、言った。
「それは俺の勝手だろう。いちいちお前の許可でもとらねえといけねえのか」
「そ、そういうわけじゃないけど」
オレは口ごもり言った。あの夏樹ルカが野球をやめて、こんな所で本を読んでいるなんていう事実からも目を逸らして。
なあ、夏樹どうしちゃったんだよ。何でこんなところで本なんか読んでるんだよ。投げることをやめたお前はいったい何なんだよ。
何が「銀河鉄道の夜」だ。こんなの、おかしいだろ……ふざけてるよ……。
「何で……何が理由でやめたんだよ?」
オレはもう1度尋ねてみた。夏樹は答えない。ぺらりと無表情にページを操る。こちらを見もしない。
そうして沈黙が訪れた。
こうしてみると図書室って静かな場所だ。誰も私語をするやつがいない。みんな真面目に勉強しているのか、あるいはこの規則にうるさい不良図書委員の影響力なのか。
夏樹はやがて言った。
「俺は……」
本に視線を落としていたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「俺は野球のせいで、大事なヤツの大切なものを奪ってしまったんだよ」
オレは夏樹の方を見た。
だけど、夏樹はやっぱり眉1つ動かさない無表情のままだった。その声だって何も特筆すべきことのない無機質な物だ。ただ事実をありのままに伝えるニュースキャスターの口調だった。
大事なやつ? 大切な物? それを野球のせいで奪ってしまった? よく意味がわからない。どういうことなんだろう。オレがそのことについての意味を尋ねる前に、しかし、夏樹はさっさと話題を変えてしまった。
「おい、お前」
さっきの話題に置いてけぼりを食らったまま、オレはぼんやりとその言葉を聞いた。
「さっきくまさんについて調べてたよな」
「え、あ、うん、そうだけど……」
夏樹の台詞の意味を考えていたオレは、しどろもどろに答える。
「あの謎については何かわかったか?」
夏樹は本に話しかけるようにして続けた。
「いや……」
「そうか」
それきり口をつぐむ夏樹。本を見ているが、その目は文字を追っていない。何かを考えているかのようだった。
そして、
「じゃあ、俺がその謎についての答えを教えてやろうか?」
そんなことを言い出した。
「え……?」
「教えてほしくないのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
何だこいつ。真意が読めない。全く意味がわからない。そりゃあもう、くまさん並みに謎なヤツだ。
「教えてほしいのか、ほしくないのか。どっちだよ」
夏樹がくり返す。
そんなに教えたいのかよ、こいつ。
というか、そういうこと神崎がいる前で言っていいのか?
そう思ったが、振り返ってみるとすでに神崎はいなくなっていた。どうもオレが夏樹と話している間に、自習スペースの方に向かったらしい。
「そりゃあ教えてほしいけどさ」
と、オレは言った。
「でも、いいのか?」
「ああ」
夏樹はそう言いながら、本に落ち葉で作ったしおり(手作りか? ってことは夏樹が作ったのか!?)を挟んで、カウンターの上に置いた。
そしてようやくオレを見て、言った。
「ただし条件がある」
って、おい。そうきたか……。
この学校にいるヤツって、みんな交換条件を出すのが好きなのか?
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